ヒーラーとアルケミストの旅と巡礼

Journeys and Home Comings for Healers and Alchemists

ヒーラーとアルケミストの旅と巡礼

 

リトリートと巡礼の旅

人間存在の目的とは、一つの表現を用いれば、自己の本質/霊性/神性が、自らの魂と肉体を通して自由に経験され、表現されることです。

それを実現するためには、自己の肉体と魂に固定されたあらゆる条件付けやパターンを見つけ、手放し、断ち切り、時に打ち破ることで、自己の本質を流れ、あふれ出させることが必要です。

固定されたパターンや条件付けは、肉体から感情、知性、意志、エネルギーの様々なレベルに存在し、魂が過去の生から持ち込んできたもの、遺伝的に受け継がれたパターン、家族のコンステレーション(布置)としてその人を取り巻くもの、成長の過程で社会や家族から刻み込まれたもの、そして自分自身の経験の積み重ねから加えられたり補強されてきたものなどがあります。

固定パターンや条件付けを見つけては手放していく作業は、基本的に各自の毎日の生活の中で、自己観察や内省、メディテーション、肉体との取り組みなどを通して行っていくべきものですが、パターンや条件付けの多くは無意識の反射反応となっており、慣れた環境の中で同じような生活を続ける時、見つけたり外すことが難しいものが多くあります。

このような場合に道をつけるために、精神的道程を歩む先達の知恵は、「巡礼」と「静修」という二つの方法を生み出していました。

巡礼と静修

巡礼(Pilgrimage)とは、精神的な目的をもって、神聖なるものとの出会いを求め、あるいは自己の本質を求めて、特別な意味を持つ土地を訪れる旅に出ることです。

静修(Retreat)は、普段の環境から離れて静かな場所で集中的、内省的に時間を過ごし、自分自身と取り組む期間を持つことです。古(いにしえ)より、さまざまな精神的知恵のよりどころであった集団は、このような機会を与える習慣をもっていました。

現代においても伝統的な組織宗教はその形式を受け継ぎ、その宗教の枠組み内で実践しています。

キリスト教徒にとってはエルサレム、イスラム教徒にとってはメッカ、ヒンズー教徒にとってはガンジス川が巡礼の訪れるべき聖地であり、また仏教やカトリック教会、ヒンズー教ではその寺院や僧院、アシュラムの中で、静修のための場所を提供しています。

他方、特定の組織宗教に属さないことを選ぶ者にとっても、このような「神聖な場所」を訪れたいという憧れが胸の中にあります。宗教の枠組みを越えて、生命への畏敬そのものを価値観の中心とする者にとっては、聖地とは地球全体であり、地球のあらゆる場所が神聖であるということができます。

しかし地球をおおうエーテル体の中には、ちょうど経絡のように集中して強くエネルギーが流れる、地球のリズムの調節を司るグリッド(網目)のパターンがあります(「レイライン」)。

そしてそれらのラインが幾重にも交差することで集中的にエネルギーが流れ込み、高い密度で集まり、経絡のつぼやチャクラのような機能を果たす特定の場所があります。

地球のリズムと一つになって生きていた古代の人々は体感的にこのような場所がどこにあるかを知っており、それらの場所は世代を越えて引き継がれ、当初はその地に属する人々(部族、コミュニティ)の儀礼や儀式、癒しの場として共有され、やがて組織化された宗教が生まれ力を持つにいたり、聖地の多くには教会や寺院が建てられ、土地の空間とエネルギーは特定の宗教によって「私有化」されていきました。

幸いそのような私有化を免れることのできた場所もあり、一部は世界各地のピラミッドやストーンヘンジのように「考古学的遺産」として知られています。もちろんこれらの建造物とそれによって生み出される空間が本来果たしていた機能については、大半の考古学者は理解していません。

しかし私たちの魂および遺伝的記憶は、過去に訪れることのできた神聖な空間を懐かしみ、再びそれとつながりを持ちたいという衝動をもっています。

このような場所への巡礼、あるいは豊かな自然の中での静修が、自己の魂、そしてその核にある霊性/神性/自己の本質と向かい合うことを可能にする理由の一つは、まぎれもなく、このような場所自体を満たし流れているエネルギーの強さによります。

レイラインの配置とともに、その場所の自然や気候風土、季節と時間のリズムも関係しますが、これらの空間に足を踏み入れる時、その圧倒的なパワーによって、多くの人は何の努力もなく、自然と空間との一体感を経験し、忘れていた生のリズム、自分は宇宙や自然の生命すべて、人類の歴史のすべてとつながっており、自分が生まれてきたことには理由があるという事実を再び感じ始めます。

そうして普段の生活の中で胸の奥深くにしまってある精神的な憧憬がうずきだし、まるで「目覚めた」かのように感じるのです。このような感覚は「聖地」に限らず、普段の生活の拘束から完全に離れて豊かな自然の中で時間を過ごす時にも、経験されることがままあります。

そしてその環境が、訪れる者にとって未だ経験したことのない、あるいは普段の生活から大幅に異なるものである時、固定されたパターンを揺さぶり、自己の中の条件付けに気付き、断ち切ることを促す効果は高まります。

その意味では、日本の聖地のしっとりとした静謐な空間も捨てがたいのですが、またすばらしい浄化作用をもった場所もあるのですが、それらは同時に私たちにとって「馴染み」のものであり、「自分が誰であるか、この血に流れているのはどのような記憶であるか」を再び思い出させてくれますが、無意識のパターンや条件付けを見つけ、あるいは外すという目的のためには、日本の国外、異なる自然と文化圏の方が向いているのです。

このような異なる環境に置かれる時、人は自分がそれまで慣れてきた土地、社会、文化、生活、思考、感情の内的・外的パターンや、自動化された反応や態度から引き離されて、自分の知らなかった/忘れていた生き方、感じ方、考え方、そして異なる生のリズムで生きる可能性を目の当たりにします。

そして現実と自分自身とを新しい視点から見直すよう、内面からの促しが起きます。(もちろん、団体形式の観光では日本の文化/社会慣習/行動パターンがそのまま持ち越されるので、これは可能ではありません。)

先に述べたように、これまで経験したことのないエネルギーのグリッドの中におかれること自体、個人の固定されたエネルギーパターンを解きほぐし、魂を広げる効果があります。

日本のエネルギーグリッドから離れ、意識的に日本と大きく異なる自然/文化/エネルギー環境、時間のリズム、土地の呼吸の中に身を置くことは、自分の体に流しまた感じ取ることのできるエネルギーの周波数(色のスペクトラム)に幅を加え、また異なる時間のリズムでパルスする能力を高めます。

このような時間と空間を、パワフルな自然のエネルギーが存在する場所や聖地と呼ばれる場所において、人生についての基本的な価値観を共有する人々と、明確な意図やテーマをもって共有できる時、それは大切な変容のステップとなり得ます。これらの点を理解し、意図のうちに組み入れ、意識的にその過程に足を踏み入れる時、そしてエネルギーワークの知識と技術をそこに組み入れる時、比較的短い滞在であっても収穫を得ることが可能なのです。

地球の住人として

とりわけこの時代に「地球の住人」として生きようとする者にとっては、できる範囲で地球上の様々な自然と出会い、気候風土や文化を肌で感じ、エネルギーの手触りを知り、体感的に人類全体に対するつながりと理解を広げることは、大切な土台です。

いったん日本とそのエネルギーのグリッドの外に出てみれば、日本という国が直面する問題についてもより明確な視点が得られます。同時に親しんだ環境から離れることで、日本という国の特質、長所、そしておそらくは他の国々にもたらすことのできる贈り物について、そしてどのように自分がその仲立ちの一部となれるかについても考えてみることができるでしょう。

人が特定の土地や自然を訪れる時、新しい経験や理解が加わるだけでなく、エネルギーのレベルで絆が結ばれます。地球とこの世界について真に「知る」ためには、できるだけたくさんの土地を訪れ、外的な地球のエネルギーの地図を、自分自身の内にある地図と、経験を通して対応させ、結びつけることが重要なのです。

それによって地球は真に私たちの「家」、「故郷」となります。そして世界のどこかで災害や不幸が起きた時、それを単に「遠くの国」のことではなく、「自分の家に起きていること」と感じることができるのです。

日本国内でも美しい山や海の自然のある場所を訪れたことのある人は、その山や森が痛めつけられたり、その海が汚されたりすれば、自分が訪れたことのない場所で同じようなことが起きている時よりも、強い感情を感じます。

その感情が、切実感をもって「何かをしなければ」という意志に火をつけるのです。

旅の意味

旅に出るということ自体が人生のメタファーそのものであるように、「遠い土地」に出かけるためには、その準備として自己の内に心構えを築き、エネルギーを蓄え、物事の優先度を再検討し、必要な選択を行い、手放す必要のあるものを手放し、エネルギーと物質レベルで投資を行うことが必要とされます。

このような旅の準備過程自体が、魂にとっての重要な成長のステップないし訓練(ある意味では圧縮された人生のプロセス)ともなりえます。

古来からの聖地への巡礼の習慣は、このような理解を無意識のレベルで内包していました。

School of Healing Arts and Sciencesでは、「巡礼」と「静修」いう形に組み込まれた伝統的な知恵を汲み上げながら、参加者の魂と肉体が、普段の環境の制約を超えてのびのびと広がり、呼吸し、自然との交感(コミュニオン)のうちに生きることのよろこびを味わい、自己の本質を見いだす機会を創り出すことを目的に、海外リトリート/巡礼の旅を実施しています。

2002年はハワイ島で「夢と癒し」をテーマにした、海と芸術療法リトリート、2003年はカリブ海のビミニ島でイルカと泳ぐ&海底遺跡でシュノーケリング。

2004年はカリブ海沖のシルヴァーバンクで越冬するクジラと泳ぎ、2005年はハワイのカウアイ島で、ダイナミックな自然の中で四大元素とのつながりを深めるメディテーション・リトリートを行いました。

2006年にはアメリカのシャスタ山(メディテーションとエネルギーワーク集中静修)、2007年はハワイ島での女性限定リトリートを行いました。

2008年は沖縄で芸術療法と夢・祈り・メディテーションに取り組み、2009年はボルネオ島で、悠久の豊かな自然の懐に抱かれ、たっぷりとエネルギーを受けとって日本に持ち帰りました。

2010年からはバリ島とボルネオ島で交互に実施されています。

2016年にはフランスの聖地ルルドと、SHASの学生の多くにとって「懐かしい場所」であるカタリ派の故郷を訪ねました。

2017年以降はイタリア(フィレンツェ)、ギリシャ、トンガ王国(クジラと泳ぐ)、ボルネオ(世界で最も古い原生林の中のロッジに滞在)などを予定しています。


 

夢とヒーリング

 

(2002年4月の記事)

あらゆる古代文明には、夢を通して物質レベル以外の世界にコンタクトし、そこでさまざまな存在からメッセージを受け取ることができるという知識が存在していた。

今でも世界各地のシャーマンたちはこの知識と技術をなんらかの形で温存しているし、オーストラリアのアボリジニやアメリカ大陸のファーストネイション(先住部族、昔は「インディアン」と言い今は「ネイティヴアメリカン」と言うがどちらも正しい呼称でない)、チベットの民のように、文化全体でそれを日常的な常識として保っている人々もある。

日本においてももちろん、夢を通して神仏や人間以外の存在からお告げを得る習慣があったことは、神話や中世の文学などに詳しいし、「夢占(ゆめうら)」「夢想開き」などの言葉としても残されている。

夢想開きとは「(1)神仏による夢のお告げを人に披露すること。また、その催し。(2)夢に神仏の示現があって句を感得した時、奉謝のため人に披露し、これを発句とし脇句から付句して作る連歌」(広辞苑)。

また「夢違え(ゆめたがえ)」、「夢祭り」などのように、災いの予告と思われる夢を見た時にそれを免れるよう祈りやまじないを施す習慣もあったほど、夢は現実世界と密接に結びついたものとして、真剣に受けとられていた。

夢の中のお告げは、実際に自己より大きな何らかの力ないし存在からのメッセージとして、敬意をもって受け止められた。

しかし現代の日本において「夢のお告げ」を真剣に信じる人は、ユング派の心理学者や夢療法について専門に勉強した人などを除けば、少なくなっているだろう。

たまに見る怖い夢を「何か悪いことでも起きるのでは」と心配することはあっても、夢の世界を深い象徴性に満ちた一つの現実として受け止めるという認識は、現代の日本人ではほとんどなくなっており、辞書の定義にもそれは示されている。

ゆめ【夢】

(イメ(寝目)の転)

1 睡眠中にもつ幻覚。ふつう目覚めた後に意識される。多く視覚的な性質を帯びるが、聴覚・味覚・運動感覚に関係するものもある。古今和歌集恋「思ひつつ寝ぬればや人の見えつらむ—と知りせばさめざらましを」。

2 はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。古今和歌集哀傷「寝ても見ゆ寝でも見えけりおほかたはうつせみの世ぞ—にはありける」。

3 空想的な願望。心のまよい。迷夢。

4 将来実現したい願い。理想。

(広辞苑)

日本人を含む現代人では、夢とは単に寝ている間に見る幻(のようなもの)か、または空想ないし将来の願望を意味するものとなり、物質世界とは異なる別の世界そのものないしそのような世界への通路という認識はなくなっている。

フロイト派の精神分析家によれば、定義はもう少し視点を変えて、夢とは個人の内面、とくに潜在意識や抑圧された無意識が象徴的に反映される場であり、それは個人の内的世界の表現である。

これに対し、ユング派の心理療法家では、個人の枠を越えて、集団(家族、民族、人類レベル)の深層意識や神話の世界などが個人の夢に象徴として表れることもあると考える。

単なる個人の内的世界や「現在」という時間の制約を越えた過去から未来を含む集合意識の世界へのアクセスの可能性を認めている分、その定義は広い。

これに対し、アボリジニの言葉ではドリームタイムは「アルチェリンガ(古い石の時代)」と言い、これは「石がまだ生きていた時代」を意味する。

このような「自然の中のすべてのものが生きて意識を持っている世界」は、世界各地のシャーマンや自然霊との交感能力を維持する人々によって、今も「普通の現実」と隣接して存在していると信じられている。

そこでは植物の精たちが歌い、踊り、岩や動物たちが語り、人間と対等の生き物として対話を交わし、世界はまさに「生きて」いる。また人間よりパワフルな存在であるパワーアニマル、カチーナ、神々なども生きていて、人間の生活に関わったり、恵みや災いを与えたりする。それは人の内的世界であると同時に、外的な現実であるとも言える。

あるいは内的世界を通って外的世界につながる道、と言おうか。

古代においてはこのような「世界」は、「通常の現実」から乖離していなかった。物質世界も我々が現在「目に見えない世界」あるいは「内的現実」と見なす世界も、同じ自然の一部として、重なりあって存在していた。

やがて人間が個人としての自己意識、自我機能、左脳的機能、自己について省みる能力、客観能力、分析能力などを発達させるにつれ、これらの世界は別々のものとして経験されるようになっていった(世界が二つに分かれたのではない、人間の内面が二つに分かれ、それによって世界が異なる領域に分けて経験されるようになったのである)。

この時点で、夢は「別の現実」への通り道となった。普段の生活の中で「別の世界」を経験する能力を失った人々は、自我と自己意識の支配のとぎれる睡眠中において、夢を別の世界につながる通り道としたのである。

そうして現代の西洋文化および日本を含め西洋的「自我中心」文化の影響下にある国々においては、夢の持つ別の現実への通り道としての機能さえも忘れ去られた。

ユングは、自我ないし個人の意識を越えた領域への通路としての夢の機能を再発掘したのであるが、それを実際の自然界、外の世界とのつながりにおいてではなく、あくまで内的、心理的な世界のことに限る姿勢を少なくとも公の立場では保っていた(晩年になって彼がこの姿勢を緩め始めた時、アカデミックな世界からは激しい非難を受けた)。

現代人は「夢」をもう一つの現実と見なすことに対して非常な恐れを抱いているようだとも言える。それは不幸なことであり、現代社会の病理とも深いレベルで関わっている。

現在アメリカの精神世界で「ドリームワーク」と呼ばれているのは、夢を自己成長のために使う方法論で、大きく2つの形がある。

1つはユング系の影響から生まれたもので、習慣的に夢日記を付け、自分自身の精神や心理の深い部分、表層意識に見えない部分について洞察を得たり、魂の深い部分からのメッセージを受け取ろうとする取り組み。

もう1つはインドやチベットの夢ヨガの流れを汲んで、夢の中で意識を目覚めさせ、夢を自由に操れるようになる覚醒夢の状態を目指すものである。

これに対して、私が自然の中のリトリートで行いたいのは、ユングにより再発掘されたアルケミーの伝統に連なる心理レベルと魂レベルの取り組みも組み入れながら、それよりもさらに古代ギリシャ、とくにアスクレピオスの宮で行われていたドリーム・インキュベーションにつらなる、より直接的にヒーリングに結びつく取り組みである。

インキュベーションとは抱卵、孵化させるという意味で、静かな空間の中で夢の卵を魂が抱いて孵化させるプロセスとたとえてもいいだろう。あるいは魂自体がその卵である場合もあるだろう。

アスクレピオスは古代ギリシャ最高の癒し手、ヒーラーであり、そのあまりの腕ゆえに死んだ人間までも甦らせてしまい、ゼウス神の怒りを買って稲妻に撃たれて死んだという伝説が残っている。同時にそれまでの薬草や水の力による癒しに加え、夢の解釈により、言葉によって人の魂を癒す方法を生み出し、心理療法家の祖とも呼ばれている。

歴史に残っている限りでは紀元前6世紀から紀元3世紀まで、主宮のエピダウロスとそれに連なる宮で、治療が行われていた。

癒しを求めて訪れた人たちはまず身を清め、泉で体を洗い、薬草の抽出液を飲んだりマッサージを受けたりして体と心の準備を整え、それから聖所に入って眠る。夢の中でアスクレピオスやそのお使い(少年、蛇、犬、雄鳥)が現れて癒されることもあれば、夢を通してメッセージが象徴的に与えられることもある。

アスクレピオスの神官たちは、夢を解釈し、言葉を通して魂の癒しにつなげる技術に長けていた。その宮での治療効果がどれほどのものであったかは、ギリシャのみならずヨーロッパの各所に分宮が作られ、少なくとも900年の間、絶えず人々が訪れ続けたことによって証される。

3世紀にこの伝統が断たれたのは、排他的で攻撃的なキリスト教徒の弾圧によってであった。

アスクレピオスの宮とそこで行われた癒しにおいては、夢は、自己の魂の神聖な部分、あるいは自己の内に内蔵されるもっとも高い知恵への通り道であり、同時に個人の自己を超えたより大きな力へのつながりを可能にするものとして、心と体の癒しに直接的、積極的な働きを持つ。

そして同時にそれは、自然に囲まれた神聖な空間での静修、水療法、ハーブ治療、ボディワーク、ギリシャ悲劇の観劇といった芸術療法、音楽療法などの総合的な癒しの方法論の一部として、その力を発揮するようになっている。

いわば、アスクレピオスの宮は、理想的な総合ヒーリング施設でもあった。他の多くの伝統においては一部の参入者にのみ分かち合われ、もっぱら精神的な鍛錬の目的にのみ用いられてきた秘儀の知恵を、アスクレピオスは心身の病気治療の技術としてかみ砕き、人々に与えたのである。

ギリシャ語のアスクレピオスという名は「限りなく優しき者」という意味だと言われるが、その名にふさわしい、ヒーラーのアーキタイプの体現者であった。

この癒しの宮居の伝統を私は復活させたいと望んでいる。現在、統合ヒーリング科の学生たちと進めている臨床実習形式のクリニックも、自然の中での合宿静修(リトリート)も、ある意味ではそのような宮居の構成要素である。

それは必ずしも古代の宮のように一定の場所に建てられるものではおそらくないだろう。

むしろ秘教を学ぶ古のグループがその時々の条件や必要性によって、さまざまな自然環境の中の異なる場所を選んで集ったように、その時々によって様々な場所に築かれ、そしてある意味ではそれを経験した人の魂の内に内蔵されて運ばれるものになるだろう。

このような神聖な空間を経験した者が再度、複数集まれば、そこに宮居が築かれる。

一人のヒーラーが癒すのではない。複数の癒しの紡ぎ手、治療者、支え手によって形成される、時間をまたがり存在する癒しの器こそが、可能な限り多くのレベルで人々が癒えるを支えるのである。

そしてそれはまた自然によって支えられなければならない。人間が単独で治すのではない、自然によって与えられた肉体を、自然の助けを借りて本来あるべき状態に戻すのである。

母なる自然と父なる霊との結婚によって生まれた魂を、母なる自然の恵みによって潤すのである。

霊は導き、自然は育む。これはすべての人間存在のよって立つ土台でもあり、したがってエネルギーやハンズオン・ヒーリング、フラワーメディスンを含むヒーリングの方法論の土台でもある。